Discography
6月7日にデビューアルバム「Noh×Contemporary Music」をALM RECORDSよりリリースいたしました! エトヴェシュ「Harakiri」(バス・クラリネット版)ほか私の声のため書かれたヨーロッパの作曲家の4作品、合計5曲を収録しています。全曲世界初録音です。
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青木 涼子(能謡)
斎藤 和志(フルート)・山根 孝司(クラリネット)・竹島 悟史(パーカッション)
ドイツ、フランス、イタリア、アメリカなど各国の文化機関より招聘を受け、2013年にはマドリッド王立劇場でのオペラ出演も果たすなど、世界的な活躍が目覚ましい稀代の能謡 青木涼子が、現代音楽の鬼才たちとのコラボーレションにより全く新しい「能」の姿を浮かび上がらせる。三島由紀夫の自決に題材をとったエトヴェシュの「Harakiri」(バス・クラリネット版)をはじめすべての収録曲が世界初録音。
ALCD-98
税抜価格2,800円
2014年6月7日発売
F. ガルデッラ:風の声 (2012)
C.-M. シニュベール:謡とクラリネットのためのエチュードー 経正の足跡をたどって (2008)
V. サニカンドロ:3つの能の歌 (2011)
A. デュモン:山伏の祈り (2013)
P. エトヴェシュ:Harakiri (1973)
録音:秩父ミューズパーク音楽堂 2013年11月7-9日
製造・発売元:ALM RECORDS コジマ録音
青木涼子の出現は、これまで単発的に、それもあまり可能性があるとは思えないような形で行われてきた能と現代音楽のマッチングに新たな、そして見通しのよい展望を付与し、また同時に作曲家たちを大いに刺激している。その顔ぶれがとにかく新鮮だ。多くの日本人が能の強靭な伝統に引っ張られ、どこか半端な音楽や演劇的振る舞いに留まってきたのに対し、ここに収められた作品は、青木からのオファーとは言え、能の声に代表される身体の発露を、原初的な地点にまで遡って、パラレルな自分の問題として受け止めている。それは、単に新しい能を作るというようなせせこましいスケールに捕われるのではなく、能や謡の発想から発していることは間違いないものの、何かもっと別の、声と楽器、声と息のパフォーマンスへと翔んでしまっており、それが非常にエキサイティングな場を、こうしてCDとして音だけ聴くことによっても作り上げている。いや、むしろ視覚性があると、よりこれらの作品は上演が難しくなるかも知れない。フルート族、クラリネット族は、どの作品でも息を潜め、一瞬丸出しにしながら音楽に参加する。それはサニカンドロ作品までは古典的テクストとも、そしてデュモン作品までは青木の謡と融合しながら、発話の何たるかを問い続ける。エトヴェシュの《Harakiri》では、さらに幾重にも重層するテクストの歴史と現実の歴史が、そこに折り重なる。演奏を含め、透徹した刺激的な1枚だ。(長木誠司)
朝日新聞夕刊6月16日(月)CD評
◇能×現代音楽 青木涼子(コジマ録音) 女性能楽師が現代曲に挑む。能の謡の、のどを詰めた、あの神秘的発声法。欧州の作曲家たちはもう謡の虜(とりこ)だ。彼女のための、緊迫感と夢幻性を両立させた新作が、勢ぞろい。いざ異界へ。アンバランス・ゾーンへ。(片山杜秀) 朝日新聞デジタル版 「for your collection クラシック音楽」
読売新聞夕刊6月19日(木)CD評
◇「能×現代音楽」 日本伝統の能謡のうたい手として独自の活動を国際的に展開している青木涼子が、現代ヨーロッパの先鋭な作風の作曲家たちとの交流によって作り上げた一枚。ガルデッラ、シニュベール、サニカンドロら実力ある中堅世代の幽玄な趣の意欲作を入魂の表現で聴く。(ALM)
読売新聞デジタル版 「Yomiuri Online カルチャー」
ぶらあぼ2014年7月号CD評
能と現代の音楽を結びつけ、独自の響きの世界を追求している青木涼子。当盤にはハンガリーのエトヴェシュら5人の作曲家への委嘱作が収められている。能の古典だけでなく、西洋の民謡の邦訳などテクストも自在に選択。共演の器楽は、時に謡の語法をトレースし、時に対置されることにより、新たな表現の可能性を纏う。そして、青木の謡も太く豊かな声のみならず、囁きやかすれすら、表現の枠の中に。器楽が言葉のニュアンスを"音"として捉えてゆく中で、なぜか言葉そのものの持つ意味が力を増してゆくのも、実に不思議。作品により、陰影が移り変わるのも心地よい。(寺西肇)
CDジャーナル2014年7月号CD評
〈今月の推薦盤〉 背後によぎる情動の気配
新たな能の可能性を求めて、海外の作曲家や演奏家たちと積極的に交わり活動を続ける能謡の青木涼子が、2010年より4年間にわたり、謡を素材にした作品を海外の現代作曲家たちに委嘱し発表する"能×現代音楽"という企画を主催。本作はその成果からの選集である。選ばれているのは、指揮者としても知られるエトヴェシュを除いて、30〜40代半ばのイタリアやフランスの比較的若い世代の作曲家たち。作りは、フルートやクラリネットが特殊奏法による重音やハーモニクスも交えて謡やコトバに響きを寄り添わせ、あるいは重ねて絡ませるいわば異種交錯のカタチ。楽器の響きが絡まった瞬間、モノトーンで時を刻まぬはずの音の道行が何やら別物のように色めく。青木のズシと重心の据わった声の背後で妙に生々しい情動の気配がよぎる。幽玄な能面の相の上に煩悩刻んだナマ身の人間の表情がホロスコープのごとく浮かんで消え失せる。混淆が生み出すこの夢幻。何とも妖しい。(中野和雄)
ストレンジ・デイズ2014年8月号
能謡という声・音・音楽・身ぶりが交差する身体を、この列島の外、まったく異なった西洋的な文化圏で作品と結びつけるという試みとして、このアルバムもまた注目されるべきだろう。(小沼純一)
モーストリー・クラシック2014年8月号CD評
作曲家たちを大いに刺激する青木涼子の出現
青木涼子の出現は、能と現代音楽のマッチングに新たな展望を付与し、作曲家たちを大いに刺激している。新鮮な顔ぶれの作曲家たち。みな能の声に代表される身体の発露を、原初的な地点にまで遡って、パラレルな自分の問題として受け止めている。古典的テクストや青木の謡と融合しながら、発話の何たるかを問い続ける。エトヴェシュの《Harakiri》では、さらに幾重にも重層するテクストの歴史と現実の歴史が、そこに折り重なる。(長木誠司)
リルケの詩、"Rose,oh reiner Widerspruch, Lust"(薔薇、おお!純粋な矛盾)。ここでリルケが「おお!」と感嘆詞をもって薔薇の美しさに感動して言葉を失う瞬間、言葉は消えてただ「おお!」としか詩人は発せられない。そこで言葉は否定され、感動の音(響き)だけが世界に誕生する。そしてそのあとに、「純粋な矛盾」という言葉が誕生する。この言葉は一度、「おお!」という言葉を否定された沈黙を通り抜けて、生まれてくる言葉だ。それだけに、この感嘆詞の驚きと感動が大きいだけ、沈黙(否定)の力は強く、そのあとに生み出す言葉は新しい「いのち」を持って誕生する。
言葉を音楽化するときに、いつも作曲家はこの「おお!」という感動、驚きの原点に還ってこなければならない。言葉の音楽化は、言葉の意味や情緒の解説であってはならない。常に言葉の新しい誕生の場に立ち会い、そこから言葉の力をくみ上げるのである。根源的な「うた」はそうやって誕生する。『おお!』という驚き、感動が強ければ強いほど、言葉は否定され、再び言葉を発することは困難になる。その言葉の根源的な誕生の場所、言葉が否定された場所を創っていくことが作曲家の仕事ではないのだろうか。
ぼくは能の謡のことを考えている。能の囃子の生み出すあの言葉の生まれる以前の「おう!」という野生の叫び声、鼓の沈黙を孕んだ深い一音は、謡で歌われるドラマの背景に、否定的な場所(音空間)を創り上げている。その場所で歌われるから、謡は力強く、立体的に響く。それは沈黙という否定的な場所を通り抜けた声なのだ。
青木涼子の新しい彼女の声のために書かれたいくつかの作品のCDを聴いて、ぼくがその批評軸とするのは、彼女の声が生まれる場所をそれぞれの作曲家がどのように創り上げているかだ。フルート、クラリネット、打楽器という楽器は単なる伴奏であってはならない。それは謡の声が通り抜けてゆく沈黙の通路(夜の道)なのである。そうした観点から、ぼくが最も好きだったのは、Federico Gardellaの『風の声』である。バスフルートのスラップ音が、沈黙を杭のように打ち込み、夜の風を模倣するような息音が、非常に制限された素材によって、繰り返される。その場所から、青木涼子の声が極めて立体的に生み出されてくる。その声は、慣習的な謡の声が一度否定されて、新たに生み出された声となり得ている。
それぞれの作曲家が試行錯誤して、日本の伝統的な能の声に挑戦したこのCDは、『うたの誕生』を考えるための様々な示唆に富んだ魅力的なCDだと思う。(細川俊夫)